名古屋桐箪笥の起源

 箪笥(たんす)とは、抽斗(ひきだし)のことです。
17世紀中期ごろに発生し17世紀末ごろに一般に広がり
始めました。箪笥以前の収納家具といえば、櫃(ひつ)、
長持(ながもち)、つづら、行李(こうり)など、いわば箱
でした。箱の場合、中にしまってある物を出し入れを
するのに、いちいちフタを取ってひっくり返さなければなり
ません。それに比べると、抽斗は出し入れに機能的で、
整理、分類に合理的であり場所もとりません。

名古屋桐箪笥の原型

便利で、手間のかからない収納具

 では、なぜそんなに便利な抽斗が17世紀中ごろまでなかったのでしょうか?それまでの日本人が
抽斗を知らなかったわけではありません。現に正倉院には、小形ではありますが、すでに奈良時代の
抽斗が残っています。どうして一般に箪笥が造られなかったのでしょうか?それは、入れる物、余剰物が
なかったからです。まさに着たきり雀だったのです。では貴族は?貴族階級は、古くからたくさんの物を持っていましたが、家も広くて倉もあり、置き場所はいくらでもありました。また、出し入れには召使いが大勢いたので、簡便な収納具などは必要ありませんでした。


そもそも箪笥の語源は

 そもそも箪笥の語源は、中国の食料を入れる円形の竹籠に
由来します。平安時代は、身のまわりの調度品を入れる
前面に扉のある二階厨子(ずし)や書巻をおく書歌棚、鎌倉
時代以降は台所用の黒棚、桃山時代には茶道の発達に
ともない茶道具をおく茶棚などを経て、江戸時代に衣装箪笥と
なりました。 17世紀になって綿織物、絹織物の生産が急増し、
これに伴って高級呉服の大衆化が進んでいきました。

民衆の衣服の増加に伴って、狭い場所で出し入れに
便利で、手間のかからない収納具、まさに箪笥は、当時と
しては画期的なものであったでしょうし、それは、民衆の要求に
よって生まれたといえます。そして、わが国民衆の生活史に
おいて、その向上の過程において育っていった物といえます。

倉の風景

名古屋桐箪笥の歴史

築城によって職人の技術が急速に向上!

 名古屋桐箪笥は約4百年前、尾張名古屋城の築城に従事した職人たちが城下町に定着し、中区袋町(現在の錦通付近)
および大須裏門前町あたりで、「箪笥」「長持」などを製造
していたのが始まりです。戦国期の終わろうとする16世紀
中期を過ぎると、全国において城郭建築や城下町建設と
いった一大建築ブームが起きました。

 徳川幕府によって全国統一が行われ、民衆の生活も定着してきた慶長15年(1610年)木曽川の洪水にたびたび侵されたことのある清須に代わって、名古屋に築城し、新しい町づくりが始められました。慶長19年(1614年)に完成した名古屋城には、10万石の木材が使われたといわれています。それに伴って、大工、左官、鍛冶屋などの職人の技術も急速に向上したと考えられます。

名古屋城

築城後、腕利きの職人たちが名古屋に移住 「清須越し」

 築城後、尾張藩の本拠をここに定め、それまでの城下町清須の町人たちは、神社、仏閣とも名古屋に移転させられました。名古屋の町奉行が、市内の旧家に対して由緒を報告させた「寛延旧家集」
(寛延3年、1750年)によれば、総数115家のうち、慶長年間に61家が名古屋に移住しています。
その中に、指物師大江市郎兵衛(慶長16年、1611年に移住)をはじめ、木挽商藤屋勘左衛門、
木挽師斉藤善兵衛、材木商高麗屋源蔵、塗師伝右衛門、鍛冶職信高三之丞、鋳物師水野太郎左衛門
などが慶長年間に移住しています。この調査時期が、寛延3年といいますから、清須越えから
140年後の調査であり、しかも、それぞれ由緒ある旧家というのであって前記の人たちの3〜4代後と
いうことになります。
 これらの職人は、大名のお抱え、または、藩用を勤めるなどの理由で、藩から何らかの援助を受け、
主な商工業は製造販売の独占を許し、これに鑑札を交付し運上金を課し、また同業者間に組合仲間を組織して規律を立て取締監督の便を計ってきました。天保年間の「尾張分限帳」(1830年)によると、
大江市郎兵衛は三人扶持を与えられており、「名府豫録」によると、享和元年(1801年)に
指物師仲間の規約のなかの指物師職分目録に箪笥、長持をつくるとあります。この規約によると、
「指物職ノ間ニ在リテハ、他領ノ者ハ弟子ヲ取リテ、ソノ業ヲ伝授スルヲ一切禁ジ、ソノ営業スルモノハ、金一分ヅツヲ組合ニ出サシム」と指物師大江市兵衛は述べています。

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狂いの少ないアク抜乾燥の技法の確立

 天明4年(1784年)生まれの岩田銀右衛門(天保8年没、1837年)のもとへ小塚利兵衛長女いと(天明5年、1785年
生まれ)が嫁いだときに持参した箪笥が、一宮市の岩田家に
保存されています。この岩田家には、初代から7代目までの
箪笥がそれぞれ保存され、名古屋桐箪笥の伝統を物語って
います。

岩田家に現存する初代の漆塗総桐箪笥は1800年ごろに
造られたものであり、2百年後の現在も使用されている
ということは、十分にアク抜乾燥をした狂いの少ない桐板材を
使用しており、また、現在も受け継がれている技術・技法の
すばらしさを証明するものです。桐材が狂いが少ないといって
も、非常にアクが強く、その乾燥方法がアク抜きと称して、天日、
雨水に十分にさらして、アクを抜きながら乾燥したものでなけ
れば、後になって黒く変色します。したがって、前記の2百年前
の箪笥が変色もなく、狂いも少ないということは、その時代に
すでにアク抜乾燥の技法が確立されていたと推測されます。

渋抜乾燥

先人たちが育んできた、板はぎ技術、継ぎ手や組み手の技法

 桐材は、立ち枯れなどで、百年以上の年数を経た太い原木が少ないために、幅の広い板が少なく、
したがって、幅の狭い板を横につないで、幅の広い板を作るための板はぎ技術も正確でなければ
なりません(十分に接着していないと、後で継ぎ目が割れてしまいます)。また、仕口と称して、板と板を直角に組む場合のいわゆる継ぎ手、組み手の技法は、のこぎり及びノミを使用します。

ほぞを作った後、金づちまたは木づちでたたいて木殺しをし組み立てます。その後、水引き(刷毛で水を塗る)を行うことにより、木殺しをしてへこんだ部分が膨張して、組み手が取れにくくなるなど、名古屋城
築城後、箪笥職人の祖先が尾張の人々の生活に密着し、半世紀にわたり、その技術・技法をはぐくんで
きたことを思う時、それら先人たちのひたむきな努力と深遠な思慮に感嘆してしまいます。


豪華な装飾を施した名古屋桐箪笥

 さて、名古屋箪笥は、1800年ごろは引き出しに桐を使い、また、鈴木宇一郎氏所有の箪笥は、天保12年
(1841年)萬屋卯兵衛(呉服商)の次男が鈴木家に
養子に来た時の箪笥で総桐です。また、小牧歴史館の民族資料室にある舟橋家の箪笥(慶応3年、1867年
ごろ)は漆塗桐箪笥です。林家現存の漆塗桐箪笥は、
現当主林茂氏の曽祖母せきが、明治2年(1869年)
林家に嫁いできた時に持参したのです。この様に寛政
年間から明治初期(1789年〜1880年)にかけて
名古屋桐箪笥の代表的な型が特長づけられました。

名古屋桐箪笥

寸法は、高さ3尺4寸

 寸法は、高さ3尺4寸(103cm)、幅3尺8寸(115cm)、奥行1尺3寸5分(40cm)で他の地方より
6寸~8寸(20cm前後)位幅が大きく、右下の部分に小引き出し(貴重品入れ)が付いていて、古い箪笥
(明治以前)には、その前に扉を付けていました。金具は関東方面では着色が黒色または赤銅色で
地味なものであるのに対し、名古屋地方では金または銀(真鍮地のメッキ)を施し、上置袋戸部分には
金箔画または漆塗蒔絵を付けて、豪華な装飾を施したものが多いのが特長です。


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